かさぶた

「小説家になろう」
「エブリスタ」にも
同じ作品を置いています。

「そろそろ張りかえようか」

 わたしは適当に相槌を打つ。いつだって、そうだ。

「随分黒くなってるだろ」

 理由なんてものは必要ないのだ。それは彼もわかっていると、わたしは勝手に思っている。彼はわたしのカーディガンの裾を引っ張った。幼い子どもが母親の手を引くようで、かわいらしくて、おかしかった。単純に年齢で言えば彼は大人で、わたしが子どもなのに、本当は逆なのかも知れない。時々そう思うし、今もそう思った。

 わたしはカーディガンを脱いでたたんだ。彼がわたしの腕の治りかけた傷に、そっとそっと触れる。何かとても大切なものに触れるようなその仕草は、少しわたしを苛立たせ、悲しみのような寂しさのような、名前の付けようのない思いを呼び起こす。けれどわたしは黙って、なんともない様子を装う。

「痛くないの?」

 手を止めて彼が訊ねる。何回訊かれただろう。飽き飽きするほどに繰り返された問い。わたしは今日も答えない。声は出さず、息だけを吐き出す。

 痛いよね。

 声にならないような声で彼は囁く。

 昼間のはずだけれど、黒く分厚いカーテンがきっちりひかれているせいで、部屋は薄暗い。もしかしたら夜なのかもしれない。電気も点いてはいるけれど一番暗くした状態で、わたしはベッドの端に腰掛けている。彼もわたしの横、ベッドの端に座っている。

 彼がわたしの肌に爪を立てたとき、電話が鳴った。素早く立ち上がり彼は携帯電話を取った。

「こんにちは」

 彼の声は二オクターブぐらい、低くなる。やっぱり昼なのだろう。

「納期は一ヶ月後ではなかったでしょうか」

 なんの話をしているのかはわからないし、知らなくても構わない。時折垣間見える「大人の男性」である彼を、それ以上深く知りたいとは思えなかった。

「聞いておりませんが」

 わたしはベッドに身を横たえた。鈍い痛みがこめかみに漂う。わたしはその痛みを抱きとめようと、目を強く閉じて気持ちを走らせた。

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「高見さん、家出、してたの?」

 何週間かぶりに登校したわたしに、隣の席のクラスメイトが少し怯えたような顔で訊ねた。わたしは首を振った。

「じゃあ、ユウカイ、とか?」

 もう一度首を振る。ユウカイ、という言葉も近いような気がしたけれど、少し違う。それに、近いにしろ遠いにしろ彼女には関係のないことだ。

「じゃあ、どうして?」

「秘密」

 彼女の顔の怯えがひどくなった。別段怖がることでもないのに。家出でも誘拐でもないと言っているのだ。それとも他にわたしの思いつかない、もっと恐ろしい理由があるだろうか。

「そ、それじゃあ、ひょっとして……」

 予鈴が鳴った。どちらかと言えば真面目で、教師に怒られるのを怖れているらしい彼女は、わたしから顔を背けてきちんと前を向いた。

 担任はぴったり予鈴が鳴り終わる瞬間に教室に足を踏み入れる。毎朝扉の外で待ちかまえているのではないだろうか。中年の女性教師は、フレームの細い眼鏡に手を当てて、壇上で突然声を荒げた。

「高見、あなた一体何をしていたんですか」

 肩をすくめる。何をしていたというわけでもない。何もしていなかった。けれどそれを正直に言うと、担任の機嫌を損ねそうな気がした。

「高見! 立ちなさい」

 これではただの見せ物だ。けれどわたしはそれを少し楽しんでいた。自分が見せ物になることは嫌だが、生徒を見せ物にしている担任が、おかしかったのだ。

 クラスメイトの三分の二ぐらいは、わたしの方を見た。残りはあまり興味がなさそうだ。それか、わたしを見ることが心痛いのかもしれない。なんだか馬鹿馬鹿しくて、わたしは思わず、声を出さずに笑ってしまった。

 担任が苛立つのがはっきりとわかる。すっと表情を消して、前を向く。消しゴムでもない、黒板消しでもない、強力な掃除機で一瞬にして吸い込んでしまえばいい。

「ずっと、寝てたんです。全く目が覚めなくて。今日の朝やっと起きました」

 険しくなる担任の顔を見返して、わたしは続けた。

「生き物ですから、やっぱりずっと起きているときついんですよね」

 教室の端で誰かが笑い出した。

「高見サンおもしろーい」

 わたしは受けを狙っているわけでも何でもない。それに、今のわたしのセリフが笑えるものなのか一向にわからない。彼女はいわゆる、箸が転がっても笑う人なのだ。けれど一応、答えておく。

「どーも」

 担任がため息をついた。少し、疲れているように見える。そう、教師だって疲れるだろう。私事で何かあったのかもしれないし、仕事のせいかもしれない。もっと言えばわたしのせいかもしれない。

「もういい。座りなさい」

「はい」

 返事ははっきりと返して、椅子の上に体を落とす。隣の席のクラスメイトが、首を傾げてわたしを見ていた。意味もなく少し微笑んで軽く目配せをした。

 なんだかすべてがおかしいのだ。

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「今度こそ消えます。見つけないでください」

 ダイニングテーブルの上に置いてあったメモを裏返すと、酔っぱらったような文字が現れた。ぱっと見は「見つけないで」で問題なさそうだったのだが、なんとなく違和感を覚えて細かく見てみる。どうやら、「見つけでください」の「け」と「で」の間に無理矢理「ない」を押し込めているらしい。そのせいでその二文字だけ少し下がっていて、変に見えたのだ。二文字だけを書き忘れていたのだろうか。

 わたしはメモを置いて、冷蔵庫を開けた。水の入ったペットボトルがなくなっている。代わりに黒っぽい液体の入ったハンドサイズのボトルがある。上の方は色が薄く、下には液体でない何かが溜まっている。

 泥水だろうか。とりあえずそれは入れたままにしておく。

 カーテンを引きちぎるぐらいの気持ちで開ける。小さな悲鳴をあげて、木の留め具が落ちてきた。本当にちぎってしまったらしい。笑えるような気もするのだが、まったく笑みが浮かんでこない。

 夏の真ん中の陽射しは強い。わたしは青空が気にくわない。食器棚の奥から墨汁の入ったプラスチックの容器を取り出す。キャップをひねって、小さな口から黒い液体を絞り出した。掌を真っ黒に染めて、窓ガラスに触れる。指の跡が黒く、ガラスを汚す。わたしは掌を叩き付けた。じわりとわたしを侵す痛みに、ほほえみかけたくなる。けれどきっと無表情のままで、墨にもう一度手を染め、何度も何度もガラスを叩いた。

 窓はところどころ掠れた黒に覆われた。誰かの芸術作品に見えなくもない。タイトルは「はみ出した空」。誰が言っていたんだったっけ。

 足元、偽物のフローリングに黒い染みが散らばっていた。

 何をしているのだろう。意味など、理由など、必要ない。目的もない。誰も喜ばないし、悲しんでもくれない。

 わたしは何が欲しいのだろう。

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 ここへ来れば、わたしはおとなしい生き物になる。暴れないし口答えしない。じっと座って、それで何の不満もない。

 わたしは息を吸って、それから吐いて、ドアノブに手をかけた。あまりにもあっさりと、安っぽいアパートの扉は開く。

 玄関に靴を脱いで揃え、カーペットの上を歩く。リビングのソファに、彼が上体を倒して目を閉じている。

 わたしは床に座って、彼を眺める。いつ気付くだろう。口をつぐみ息をひそめ、じっとなにかを待つ。

 彼の口が、動いた。

「気付かないわけないだろ。音も聞こえるし」

 黙ってうなずくと、彼は目を開いた。

 彼はソファを降りてわたしのすぐ傍へ来た。猫を思わせるしなやかな動きだ。その、男にしては細い手でわたしの手首を掴む。

「手が真っ黒だね。どうしたの」

 黙って首を傾げる。

「オカアサンには会った?」

 首を振ると、彼はふっと笑った。

「駄目だよ。オカアサン、悲しんでるよ。ぼくには全然関係ないからどうでもいいけど」

 そう言って彼はカーディガンの袖を引っぱる。

「はりかえよう」

 わたしはカーディガンを脱ぎ捨てた。彼が首を傾げた。腕を差し出して、少し灰がかった桜色のケロイドをさらす。

「かさぶた、なくなっちゃったの」

 彼はおもちゃをとられた、弱気な少年のような顔をしていた。

「大丈夫。また怪我してくるから」

 突然表情の消えた彼の顔は、わたしの兄の顔になっていた。

 立ち上がり、わたしは玄関に向かう。ゆっくりと歩を進めて、靴に足を入れる。すぐ後ろに兄がいた。ドアを開けて外に出たとき、兄は低い声で言った。

「母さんは……」

 もちろんわたしは最後まで聞きはしない。さっさと扉を閉めて帰るだけだ。

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「高見、ちょっといいかしら」

 廊下ですれ違った担任に引き留められてしまった。あまり人の通らない、倉庫の裏手に連れて行かれる。

「お願い。あんまりわたし困らせないで」

 担任の声は、随分と気弱だった。

「わたしだってただの人間なのよ……。別に、家出したっていいと思うの。でもそれをわけの分からないこと言ってごまかすなんて」

 遠くから生徒と教師の笑い声が聞こえる。空っぽの活気に満ちた空っぽの学校。空っぽの人間で溢れた空っぽの校舎。

「わたし、そんなに馬鹿にされてたんですか。先生がただの人間だってことぐらい知ってますよ」

 わざとらしくうらみがましく、そして心の中は空っぽのままそう言うと、担任が目を伏せた。

「それに、家出してるのは親ですもの」

「……だから、そういうわけのわからないこと言わないでちょうだい」

 担任の顔が少しだけ厳しくなる。

「いいですよ。あなたに信じてもらえなくても全然痛くもかゆくもないです。わたしそろそろ行きますね」

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 ダイニングのテーブルの上に、メモはまだ置いてあった。それを手にとって、もう一度眺めてみる。

 どうも「で」の濁点が不自然な気がする。妙に上に張り出しているのだ。なんとなくそれを人さし指で隠してみる。それから下に張り出した「ない」も、左手で隠す。

「見つけてください」

 わたしは指をどけて、頬杖をついた。なんだか眠い。掌はいまだに黒い染みがこびりついていた。

 冷蔵庫を開けると、泥水はなくなっていた。代わりに、ペットボトルには透き通った赤い液体が入っている。喉の渇きを覚えたわたしは、それを手に取ってキャップを開け、一口に半分ほど飲み下した。

 とても変な味だった。けれど、飲んだことはある気がする。記憶を辿ってみる。

 小学校の入学式の日だ。母は式には来なかった。家に帰ると、玄関の扉に鍵はかかっていなかった。台所にあった、赤い液体で満たされたコップ。わたしは何も考えず一心にそれを飲んだ。ジュースと思っていたのに変な味しかしなかった。気分が悪くなって居間にいくと、ソファで母が正体を失っていた。床には確か、ワインのボトルが三本ほど転がっていたはずだ。

 これは、多分ワインだ。このぐらい飲んだって大したことはないだろう。水道水で口をゆすぎ、ダイニングの椅子に座り込む。吐き気がする。吐き出してしまいたいものは何だろう。

 わたしはメモを掴んだ。見つけてほしいのかほしくないのか知らないが、見つけるか見つけないかはわたしが決めることだ。

 そしてわたしは額をしたたかに打った。

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「どうしよう」

 少女みたいな大人が、髪を乱して木の根本に座っていた。

「どうしよう、どうしよう」

 わたしは黙って片手を差し出した。けれど彼女はそれを見ようともしない。

 アルコールの匂いがする。血走った目、赤く染まった頬、焦点の定まらない目。

「わたし、行かなくちゃ」

 少しろれつの回っていない声で彼女は言って、ふらつきながら立ち上がった。

「むかえに、きてくれるの。あのひとが」

 誰を見ているのだろうか。

 誰が来てくれるの?

 彼女は覚束ない足取りで、近くに止めてあったワゴンに乗り込んだ。垣間見えた助手席には、ワインのボトルが何本か、それと泥水の入ったペットボトルが乗っていた。わたしは彼女の腕を引っ張ってとりあえず車から降ろそうとした。彼女は酔っているはずなのに力だけはあって、めちゃくちゃにわたしを引っ掻いた。興奮しているからか、彼女はわざわざ車から降りてきてわたしを組み伏せようとする。とりあえず降りてくれたのでよしとしよう。そう思ったのも束の間だった。一体彼女の爪はどうなっているのだろう。彼女が引っ掻くたび、その場所にじわりと痛みが走る。ふと見た腕には、血がにじんでいた。

 わたしはその痛みを、いつまで覚えていられるだろう。

 誰かの悲鳴が聞こえた。女性なのか男性なのかわからない。

「けいさ……いや、きゅうきゅ……は、はやく!」

「どうしたんですか!」

 がたいのいい男がやって来て彼女をわたしから引き剥がす。随分あっという間のことだった。彼女の力などやはり、大したことはないのかも知れない。

「大丈夫? 今救急車呼んでるみたいだから」

 わたしは笑って、それから彼女に近付いて、その手を握った。男が訝しげに見ている。彼女の手は冷たい。この手は果たして、わたしに触れたことがあるだろうか。

 今はわたしが彼女に触れているだけ。触れあっているとは、言えそうにない。

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 わたしは腕から首から、かさぶたをひっさげて、久しぶりに彼の家を訪ねた。

「遅いよ。一週間遅れだよ」

「大丈夫。見つかったから」

 彼の目が、ほんの少し、少しだけ輝く。

「未遂でよかった。……こんな言い方したらいけないんだろうけど。多分すぐに出て来られるって」

 わたしの言葉に首を傾げる彼をよそに、ベッドに体を預ける。カーディガンを脱いで、ぱっと見は真っ赤な腕を差し出す。

「はりかえないの?」

 彼は目を背けて、台所へ姿を消した。わたしは笑った。寝返りを打つと、壁の落書きが目に入った。

 もとは「愛したい」と書かれていたのだろう。「愛」の左にバランス悪く「日」が加わっている。

「曖したい」

 アイマイのアイ。はっきりしない。アイしたいのか、アイしたくないのか、きっとわかりはしないのだ。

 自分の腕を見て、その歪な楕円のかさぶたの端に爪を入れる。

 わたしが愛したいのは、何だろう。

 そっとかさぶたを張りかえる。誰も気付きはしない。彼がコップに水を入れて歩いてくるのが見えた。

 はがしたかさぶたを、さあどうしようか。

2021.09.05

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